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「MAKE a MEKAKUCITY」という特別な体験――8月15日に響いた、「幽霊の声」について

 『メカクシティアクターズ』ライブイベント「MAKE a MEKAKUCITY」。2日目の8月15日、足を運んできました。

 結論から言うと、「カゲプロすごい」。何がすごいって、完全にキャラが演者を食っている。歌い手のコールよりMCより、アニメのCVでなされる場内アナウンスのほうが歓声集めるんですよ! しかしそれこそがカゲプロの凄味の本質であり、現代における「キャラクター」と「人間」の関係性の写し絵でもあると思うのです。かなり貴重な空間を体験してきた確信があるので、以下少し長いですが、書きしたためました。 

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 場内での注意事項が、どもり気味の「シンタロー」によってアナウンスされる。「MAKE a MEKAKUCITY」と冠された今回のイベント。メカクシ団のメンバーがこのライブを企画して、照明やらPAやらの裏方仕事全般も、各キャラが担当しているという体で進行していく。途中で寸劇めいた掛け合いが入るのだが、周りのはしゃぎようが物凄いので「人間とキャラの境目」なんて初めからなかったんじゃないか、という思いに襲われる。どんな演者のコールよりも、キャラの声が響き出した瞬間に歓声が集まるのだ。

 最終曲「サマータイムレコード」直前のMC。原作者であるはずのじんが、「メカクシ団の連中に夏のイベントやろうぜ!って言われて、今回やらせていただいたわけですが…」と真顔で語っていた。メカクシ団のメンバーはすでに「カゲロウプロジェクト」が始まる前から雲(クラウド)のように遍在していて、「作者」であるところのじんはその声を、姿を、イタコのようにキャッチしてプレゼンテーションしたにすぎないのではないか。そんな着想が閃く。キャラクターとは人間に「作られる」ものではなく、そのように「掴まえられる」ものである……これからの「キャラクター」とは、そして「作者」とは、そのようにして理解されるべきなのかもしれない、と。

ゴーストとは確率的存在であって可能的存在とは似て非なるものだ。…いまや現代は、ある生き方に対し同時的=確率的に存在する別な生き方をしている自分の幽霊、即ちゴーストを生起せしめやすい時代となっている。
「東浩紀のゼロアカ道場」村上裕一氏の文章 より)

 ここで言われていることは要するに、固有名詞がいつしか当人を離れて、第三者によって勝手に付け足されたイメージだけが一人歩きしていくネットのような環境においては、人間も、自由な二次創作に開かれているキャラクターも、「こうであったかもしれない」自分と常に重なり合って存在しているという意味で、同じようなものだということである。「ネット」と「現実」という区分はもはや消え去り、「キャラクター」も「人間」も等しく「ゴースト」として同じ地平に生きている。

 改めて考えるとメカクシ団のメンバーが「団」として活動した期間というのは2日間にも満たないわけで(8月14日と15日)、しかも15日には大抵の場合で全員死亡という結末を迎えてしまう。当の8月14日と15日に、仲良く暢気にライブを演出していたあいつらは一体何だったんだ、という疑問が冷静になると出てくる(少なくともエネとコノハについては、「サマータイムレコード」以降の時間軸において電脳体やサイボーグの状態で存在していることはあり得ない)。しかしこの事態も、彼らを「確率的な存在=ゴースト」として捉えることで理解できる。各キャラクターの「(ある時間・空間における)状態」を記したサイコロを振ったら、「貴音がエネとして、遥がコノハとして存在し」「8月15日に全員が生きていて」「ライブイベントの演出をやっている」という出目が揃うことが、物凄く低い確率でありえるかもしれない。ゴーストという比喩は、メカクシ団の全員が「目の能力」を得るにあたって、何らかの形で一度は死亡している、という設定にも適うものだ。8月15日という日取りが「お盆」の日、つまり死者を迎える一年に一度の日であるということも示唆深い。

 ライブ会場に響くキャラクターたちの声は、まさしく「ゴースト=幽霊」のようだった。しかしその「声」こそがあの空間において最も求心力のあったものであり、じんの言葉を借りれば演者たちに「ライブをやらせる」だけの実在感を誇っていたものなのである。カゲプロにおいてはビジュアルとテーマソングが先に与えられていて、キャラクターとエモーションの共有は十分できているにも関わらず、当人の「声」だけが長らく聴こえなかったという事情があった(歌唱は声優ではなく、ボカロが担当していたため)。渇望感が高まっていたところにアニメ化が決まり、ようやくキャラクターの「声」が聴こえ始めたのだから、そのぶん求心力も高いというものだろう。『メカクシティアクターズ』本編、そして今回のライブにおいても、声優に歌わせるのでなく個々に歌い手を立てるあたりも徹底している。

 「人間」と「キャラクター」の境目がなくなったという時代性の反映、「音楽+ビジュアルによるエモーションの先行共有」によって渇望感を限界まで高め、高まりきったところで「声」を響かせるというフロー。すべてをじんら原作サイドがコントロールしていたわけではないにせよ、キャラクターの実在感をここまで高めた(或いは人間との境目を極限まで薄くした)コンテンツというのは、やはり空前絶後である。

 「カゲプロはすごい」。改めてそう思うには十分すぎるほどに足る、特別な体験だった。

『メカクシティアクターズ』を振り返って

アニメ『メカクシティアクターズ』が放映終了しました。

結局1話以降感想を書くということをしてこなかったのですが、それはこのアニメ化をどう扱っていいものか、迷いに迷い続けてきたからでもあります。

「カゲプロ」の面白さの核を一般向けにプレゼンテーションしてくれるアニメ化になると期待していたのですが(黒コノハによるショッキングな虐殺展開など、わかりやすいフックも当然あると思っていた…)、蓋を開けてみれば小説、アルバム、漫画と完全に並列なものとして位置付けられているんだろうな、と思えるアニメ化だったのです。「脚本:じん」と発表された時点で気づくべきだったのかもしれませんが。。他メディアでの展開に多少踏み込んで触れていないと、空白になっている部分が多すぎる。事実、ネット上の反応は「いい/悪い」以前に「何がなんだかわからない」といったものが大半となっています。

じん氏に所縁のあるボーカリストをゲストとして毎回招くなど、ある種のお祭り感、プロジェクトの集大成感「そのもの」を楽しんでほしいというのが原作サイドの意図なんだろうなということは中盤以降感じました。いわば「ファン向け」。アニメの多くが「原作の販促」として作られる中それとは真逆のことを行っていて、志が高いとも言えますが。。この手法が定着していくかどうか、今後の業界動向には興味をそそられるところです。

物語的には、最終話に「サマータイムレコード」と冠され、黒幕を打倒するべくメカクシ団メンバーが一同に会するということで、ハッピーエンドに至る過程が視覚的イメージとともに初めて提示されたということが言えます。では未だ完結していない小説版、漫画版はどうなるのか? カゲプロが「ループもの」だというのならアニメ版の結末が唯一のハッピーエンドで、それ以外のメディア展開はバッドエンドにするしかないのでは? とお思いになる方もいるでしょうが、他メディアでも別の形でハッピーエンドに至る道筋がつけられる、ということでいいのではないでしょうか。

今回のアニメ化でわかった重要なことのひとつに、マリーが「女王」として引き起こしている「現実世界のカゲロウデイズ化=ループ」という現象が「ひとつの世界」をリセットするようなものではなく、パラレルワールドをゼロから作り直すような営為であると判明したことがあります(act 08.「ロスタイムメモリー」)。

ノベルゲームでたとえるならば、『CROSS†CHANNEL』ではなく『Rewrite』。『Rewrite』に登場する神的存在=篝は惑星を滅びから救う可能性を探るため、複数の歴史を並列的に走らせていましたが、そのイメージです(偶然の一致でしょうが、マリーと篝はともに花澤香菜さんがCVを担当しているのも興味深い)。

著書『一〇年代文化論』などでカゲプロについて論じ、「物語評論家」の肩書きも持つライターのさやわか氏はTwitter

と発言していましたが、まさにその通りであるなと。物語としての焦点が「ループからの脱出」にはないんですよね。アニメの最終話でマリーと母・シオンとの対話にあったように、「(ありえたかもしれない可能性も含めて)出会いと別れを肯定する」ことが焦点なのかなと。

だから「考察」をすることにあまり意味はないのだと思います。そこは「謎解き」が人気を駆動する要因となった『エヴァンゲリオン』との大きな違いだと、ゲンロンカフェでのイベントでも触れられていました。おそらくじん氏ら原作サイドの中にも、「唯一の正解」というものはない。彼ら(キャラクター)の生は、時に理不尽でも総体として「幸せなものだった」と肯定することが、受け手にとって唯一の「カゲプロの終わり」なのかなと思うのです(そしてそれは「一時の別れ」なだけであって、キャラクターの幸せを願う限り、またどこかで出会えるかもしれないという可能性に開かれています)。

もっと作画がんばってほしかったなーとか、そうは言っても間口を広げる構成にしてもよかったんじゃないかなーとか思わなくもないですが、今回のアニメ化でカゲプロの面白さのコアが損なわれるようなことはなかった、それは素直によかったと思います。「カゲロウプロジェクト」というひとつの作品にとっても、コンテンツビジネスのあり方としても、そしてじん氏をはじめとする若い原作者集団にとっても、ここを基点としていろいろな変化が起こっていくのかなと思います。とにもかくにも、関係者の皆さんはお疲れさまでした。

メモ:さやわか×村上裕一「カゲロウプロジェクトの真実!」@ゲンロンカフェより

6/21開催、さやわか式☆現代文化論 #8「カゲロウプロジェクトの真実!」。同イベントでの議論より、重要と思われた部分を抜粋します。

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●カゲプロにおいて「トゥルーエンド」を模索することに、どこまで意味がある?

「アウターサイエンス」の直後に「サマータイムレコード」が投稿されたことの意味
→バッドエンドとハッピーエンドが並列的な価値を持っている。

エンディングが既に公開されているにも関わらず、解決のプロセスが抜け落ちている
→ループを打破することが人気の原動力ではない(その風景は既に提示されている)

村上「サマータイムレコードは、なぐさめのようなもの」
→誰もいない風景に、レイヤーを被せるようにしてキャラクターが消えたり、現れたりする(風景とキャラクターが同一のレイヤーにない)

ループものは「トゥルーエンド」に向かっていくという意味で、その実一本道。
→カゲプロにおいては、(どうすれば「トゥルーエンド」に至れるのか、という)「考察」がヒットを牽引したわけではない。
大塚英志の「物語消費」が「総体を捉えたい」という欲望に結び付いていたのに対し、カゲプロ(の総体)とは「総体を捉え切れないのが総体」とでも言えるもの。

  

●カゲプロの「物語」を解釈することは(そもそも)可能か?

カゲプロはテキストによって解釈される(=批評される)ことを望んでいるのか?
(テキストというのは、統御の志向性を強く持つ形式)

cf. デリダ vs リシャール
デリダ:再統合の欲望を否定する
リシャール:テキストから「もうひとつの可能性」を取り出そうとする

さやわか「カゲプロは、『総体のない総体』としてそのまま肯定することが必要」
村上「それは『批評が不可能』と言うことと同義ではないのか?」

村上「カゲプロは物語の要素が限りなく薄い」
→「自分で謎を解く」ということに、ファンはあまり興味ない。
(「解釈によってキャラクターを救う」ことは、ゼロ年代批評の基本的な手つき)
→「あったはずのコミュニケーション」は(無限に)ふやせる。
(物語的に再統合するためのロジックよりも、キャラクター同士のたわむれに関心)

村上「どれもトゥルーエンドでないなら、プロジェクトという総体が消え去るべき」
→「本だけが残る」というラストの提案(シニガミレコードも偽史であったことに)

 

●カゲプロのテーマ性

村上氏は、なぜカゲプロを自著で扱ったか?
→「家族」「ネットワーク」などの主題。デジタルネイティブ世代が何に寂しさを感じているのかを考えたかった。

カゲプロは、「人はどのようにわかり合っていったらいいのか」ということを二つの軸を用いて描いている。

横軸:能力が過去のトラウマと結び付いている(同じような過去を持つ者への共感)
縦軸:物語的な解決が、アヤノの父親に収斂する(「子が親を救う」構造)