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『メカクシティアクターズ』を振り返って

アニメ『メカクシティアクターズ』が放映終了しました。

結局1話以降感想を書くということをしてこなかったのですが、それはこのアニメ化をどう扱っていいものか、迷いに迷い続けてきたからでもあります。

「カゲプロ」の面白さの核を一般向けにプレゼンテーションしてくれるアニメ化になると期待していたのですが(黒コノハによるショッキングな虐殺展開など、わかりやすいフックも当然あると思っていた…)、蓋を開けてみれば小説、アルバム、漫画と完全に並列なものとして位置付けられているんだろうな、と思えるアニメ化だったのです。「脚本:じん」と発表された時点で気づくべきだったのかもしれませんが。。他メディアでの展開に多少踏み込んで触れていないと、空白になっている部分が多すぎる。事実、ネット上の反応は「いい/悪い」以前に「何がなんだかわからない」といったものが大半となっています。

じん氏に所縁のあるボーカリストをゲストとして毎回招くなど、ある種のお祭り感、プロジェクトの集大成感「そのもの」を楽しんでほしいというのが原作サイドの意図なんだろうなということは中盤以降感じました。いわば「ファン向け」。アニメの多くが「原作の販促」として作られる中それとは真逆のことを行っていて、志が高いとも言えますが。。この手法が定着していくかどうか、今後の業界動向には興味をそそられるところです。

物語的には、最終話に「サマータイムレコード」と冠され、黒幕を打倒するべくメカクシ団メンバーが一同に会するということで、ハッピーエンドに至る過程が視覚的イメージとともに初めて提示されたということが言えます。では未だ完結していない小説版、漫画版はどうなるのか? カゲプロが「ループもの」だというのならアニメ版の結末が唯一のハッピーエンドで、それ以外のメディア展開はバッドエンドにするしかないのでは? とお思いになる方もいるでしょうが、他メディアでも別の形でハッピーエンドに至る道筋がつけられる、ということでいいのではないでしょうか。

今回のアニメ化でわかった重要なことのひとつに、マリーが「女王」として引き起こしている「現実世界のカゲロウデイズ化=ループ」という現象が「ひとつの世界」をリセットするようなものではなく、パラレルワールドをゼロから作り直すような営為であると判明したことがあります(act 08.「ロスタイムメモリー」)。

ノベルゲームでたとえるならば、『CROSS†CHANNEL』ではなく『Rewrite』。『Rewrite』に登場する神的存在=篝は惑星を滅びから救う可能性を探るため、複数の歴史を並列的に走らせていましたが、そのイメージです(偶然の一致でしょうが、マリーと篝はともに花澤香菜さんがCVを担当しているのも興味深い)。

著書『一〇年代文化論』などでカゲプロについて論じ、「物語評論家」の肩書きも持つライターのさやわか氏はTwitter

と発言していましたが、まさにその通りであるなと。物語としての焦点が「ループからの脱出」にはないんですよね。アニメの最終話でマリーと母・シオンとの対話にあったように、「(ありえたかもしれない可能性も含めて)出会いと別れを肯定する」ことが焦点なのかなと。

だから「考察」をすることにあまり意味はないのだと思います。そこは「謎解き」が人気を駆動する要因となった『エヴァンゲリオン』との大きな違いだと、ゲンロンカフェでのイベントでも触れられていました。おそらくじん氏ら原作サイドの中にも、「唯一の正解」というものはない。彼ら(キャラクター)の生は、時に理不尽でも総体として「幸せなものだった」と肯定することが、受け手にとって唯一の「カゲプロの終わり」なのかなと思うのです(そしてそれは「一時の別れ」なだけであって、キャラクターの幸せを願う限り、またどこかで出会えるかもしれないという可能性に開かれています)。

もっと作画がんばってほしかったなーとか、そうは言っても間口を広げる構成にしてもよかったんじゃないかなーとか思わなくもないですが、今回のアニメ化でカゲプロの面白さのコアが損なわれるようなことはなかった、それは素直によかったと思います。「カゲロウプロジェクト」というひとつの作品にとっても、コンテンツビジネスのあり方としても、そしてじん氏をはじめとする若い原作者集団にとっても、ここを基点としていろいろな変化が起こっていくのかなと思います。とにもかくにも、関係者の皆さんはお疲れさまでした。