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メモ:さやわか×村上裕一「カゲロウプロジェクトの真実!」@ゲンロンカフェより

6/21開催、さやわか式☆現代文化論 #8「カゲロウプロジェクトの真実!」。同イベントでの議論より、重要と思われた部分を抜粋します。

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●カゲプロにおいて「トゥルーエンド」を模索することに、どこまで意味がある?

「アウターサイエンス」の直後に「サマータイムレコード」が投稿されたことの意味
→バッドエンドとハッピーエンドが並列的な価値を持っている。

エンディングが既に公開されているにも関わらず、解決のプロセスが抜け落ちている
→ループを打破することが人気の原動力ではない(その風景は既に提示されている)

村上「サマータイムレコードは、なぐさめのようなもの」
→誰もいない風景に、レイヤーを被せるようにしてキャラクターが消えたり、現れたりする(風景とキャラクターが同一のレイヤーにない)

ループものは「トゥルーエンド」に向かっていくという意味で、その実一本道。
→カゲプロにおいては、(どうすれば「トゥルーエンド」に至れるのか、という)「考察」がヒットを牽引したわけではない。
大塚英志の「物語消費」が「総体を捉えたい」という欲望に結び付いていたのに対し、カゲプロ(の総体)とは「総体を捉え切れないのが総体」とでも言えるもの。

  

●カゲプロの「物語」を解釈することは(そもそも)可能か?

カゲプロはテキストによって解釈される(=批評される)ことを望んでいるのか?
(テキストというのは、統御の志向性を強く持つ形式)

cf. デリダ vs リシャール
デリダ:再統合の欲望を否定する
リシャール:テキストから「もうひとつの可能性」を取り出そうとする

さやわか「カゲプロは、『総体のない総体』としてそのまま肯定することが必要」
村上「それは『批評が不可能』と言うことと同義ではないのか?」

村上「カゲプロは物語の要素が限りなく薄い」
→「自分で謎を解く」ということに、ファンはあまり興味ない。
(「解釈によってキャラクターを救う」ことは、ゼロ年代批評の基本的な手つき)
→「あったはずのコミュニケーション」は(無限に)ふやせる。
(物語的に再統合するためのロジックよりも、キャラクター同士のたわむれに関心)

村上「どれもトゥルーエンドでないなら、プロジェクトという総体が消え去るべき」
→「本だけが残る」というラストの提案(シニガミレコードも偽史であったことに)

 

●カゲプロのテーマ性

村上氏は、なぜカゲプロを自著で扱ったか?
→「家族」「ネットワーク」などの主題。デジタルネイティブ世代が何に寂しさを感じているのかを考えたかった。

カゲプロは、「人はどのようにわかり合っていったらいいのか」ということを二つの軸を用いて描いている。

横軸:能力が過去のトラウマと結び付いている(同じような過去を持つ者への共感)
縦軸:物語的な解決が、アヤノの父親に収斂する(「子が親を救う」構造)