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文芸評論家・村上裕一さんによる「カゲプロ」解説(4/29『ネトウヨ化する日本』読書会より)

カゲロウプロジェクトに関してのまとまった評論が読める現状唯一の書物である『ネトウヨ化する日本』(角川EPUB選書)。その著者の村上裕一さんご本人も参加される読書会があるというので、先日足を運んできました。

[週末研]映像で読む『ネトウヨ化する日本』読書会 | Peatix

同書では、ネット上で右翼的なふるまいを行う「ネトウヨ」現象の分析を端緒に、そうした心性に抵抗するコンテンツの例として、カゲロウプロジェクトが取り上げられています(カゲプロもまた、インターネットから生まれ、インターネットにおいて支持されているということが重要なのです)。

以下、村上さんご本人がカゲプロについて解説された部分をまとめました。


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<カゲプロの注目すべき点>

①ループの意義付け

②擬似家族の扱い方

③キャラクターの強度

 

①について

ループ:いつからか単なる流行になってしまった
「なぜ」それが必然的なのか、ということが問われなくなっていった。
(『ゲーム的リアリズムの誕生』などによって批評は追いついたが、作品が更新できていなかった)

カゲロウデイズ=終戦記念日のループ
→「単なる偶然でありながら、単なる偶然を超えた意味」 

「日本の」キャラクターコンテンツであるカゲプロが「ループを扱う」ということ
→「日本という国は、終戦記念日から時間が動いてない」という政治的な感覚を含有している感じがした

補足:じん氏はインタビューで、「8月15日」の理由について「お盆で、死者が帰ってきて、生死の境目が曖昧になる期間だから」と答えている。「政治的な感覚」に関する村上さんの考えは拡大解釈ということになるが、じん氏のこの発言は後述する第三のポイントを補強するものとして重要である。

 

②について

なんでループしているんだろう?となったときに、過去に遡るという展開がカゲプロにはある(アザミがなぜカゲロウデイズを作ったか……など、過去に遡ることのできる「因縁」が存在する)

擬似家族的な孤児の共同体(メカクシ団)の拡張と、「子が親を救おうとする」(娘のアヤノが父親のケンジロウを、妹/弟のキド・カノ・セトが姉のアヤノを……という)構造が、同時進行で進んでいく
→「親子(垂直的な役割分担)」と「擬似家族(水平的なフラットさ)」という、交換できない緊密さのモデルを、同時に体現している。

 

③について

村上さんにとってキャラクターとは、「存在していないのに、自分は存在していると強弁するような存在」。本来存在していないものなのだから、誰かが「存在している」と言い張らないかぎり存在がなくなってしまう。
→誰かに消費・認識・感情移入されないと存在できない。消滅してしまう。

カゲプロのキャラ(『Angel Beats!』や、『うみねこのなく頃に』のキャラも)は、生きているのか死んでいるのかわからない、二重の状態に置かれている。
→読者がキャラクターに感情移入する、ということを先読みして、そのような状態をキャラクターに与えている。

読者がキャラクターに感情移入すればするほど、生/死の危ういバランスは生の側に傾き、感情移入が止まれば、また曖昧な状態に置かれてしまう。
→キャラクター自身の「自己保存」の欲求と、読者のキャラクターへの絶えざる感情移入が結託して、キャラクターの「生」の強度を引き上げていく。 

 

◆カゲロウプロジェクトの「セカイ系決断主義」に対する抵抗の可能性

セカイ系決断主義」とは:「戦わなければ生き残れない」という「決断主義」的な雰囲気に、「戦う以外に選択肢のない」世界観設定が組み合わさった物語類型のこと。「その構造に組み込まれると、それ以外のストーリーを想定できなくなるような状態」。ネトウヨの心性もこれに近いものがあると、本書では分析がなされている。例として『進撃の巨人』など。

カゲプロ:一つの大きな歴史(メデューサアザミに端を発する)がありつつも、群像劇の体裁をとっている(主人公がたくさんいる)。
複数の物語が展開されている=主人公ごとに異なる目的(守りたいと思うもの/人)を持っているにも関わらず、「メカクシ団」という共同体の下に集える……という価値観が提示されている。