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久弥直樹のメソッド――『Kanon』のカノン(反復)として『天体のメソッド』を観る

はじめに

10月より放送の始まった『天体のメソッド』。その原案・脚本をつとめる「久弥直樹」という名前に、聞き覚えのない視聴者も多いのではないだろうか。

久弥直樹は90年代末~00年代初頭にかけ『ONE~輝く季節へ~』『Kanon』などのPCノベルゲームを手がけてきたシナリオライター京都アニメーション制作でアニメ化もされた『AIR』『CLANNAD』の麻枝准とともにゲームブランドKeyを立ち上げ、「泣きゲー(=泣けるゲーム)」の一大潮流を作り出した(一部で)伝説的な人物として知られる。しかし2000年の『Kanon』を最後に引退同然の形となってからは、2007年のアニメ『sola』で原案・一部脚本をつとめた他には公に姿を現すことなく、長く沈黙を保ったままだった。その彼が七年ぶりに表舞台に復帰を果たした作品というのが、この『天体のメソッド』なのである。

新進スタジオによる制作体制や若手声優の積極的な起用、スマホゲームで人気のイラストレーターをキャラクター原案に迎えるなどきわめて「今風」なデコレートが施されているものの、ノベルゲーム時代から彼の作品を追いかけてきた者にとっては「これぞ久弥節」との印象を強く残す第1話でもあった。とりわけ表層的なモチーフやキーワードのちりばめ方には、かなり直接的に『Kanon』を想起させるものがある。そこで久弥氏の作風をいま一度振り返るべく、過去作と『天体のメソッド』の比較検討を行う本記事を作成した。「久弥直樹って誰?」というアニメファンにほど、ぜひ知ってほしい一貫性がそこにはある。

※なお、以下『ONE~輝く季節へ~』『Kanon』のネタバレに配慮していないため注意されたい。

■ONE~輝く季節へ

『ONE~輝く季節へ~』はKeyの前身であるTacticsによって開発されたPCノベルゲームである。企画は麻枝准であり、久弥は全6ヒロインのうち、半数にあたる3ヒロインのシナリオを執筆している(とされる)。ゲーム全体の基調をなすのは、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に強い影響を受けているとされる麻枝の作品に特徴的な、日常とは異なる「もうひとつの世界」の存在である。

主人公は家族との幸せな日常を奪われ絶望の淵にいた幼いころ、「いつか終わりの来る日常」を否定し、悲しみのない「永遠の世界」を望むようになる。また彼にはそんな「永遠」を肯定してくれた幼なじみの少女がいたのだが、その幻影に現在でも縛られている。主人公はヒロインの一人と親密になるが、かつて少女と交わした「永遠の盟約」に従うようにして、「もうひとつの世界」へと姿を消してしまう。そこで彼はヒロインと過ごした日々を思い返し、「終わりがあるけれども、輝く日常」を改めて肯定するに至る。そして一年後、彼を待ち続けたヒロインのもとに主人公は帰還を果たす…以上が大まかなあらすじである。

上述の通り、『ONE』において「約束」とは主人公を縛るものとしてある。主人公が日常に帰還を果たすのは、かつて少女と交わした盟約を上書きする形で、ヒロインとの日々が肯定されたことによる。今作において「約束」とは、何より「乗り越えるべきもの」として存在しているのだ。

Kanon

Kanon』はKeyブランドの第一作であり、企画者は久弥直樹。全5ヒロインのうち3人までのシナリオを自身で手がけており、その中にはもちろん作品最大の謎にかかわるメインヒロインも含まれている。そして作品のテーマは、ずばり「約束」である。

主人公は幼いころを過ごした「雪の街」に七年ぶりに帰ってくる。当時のことをほとんど覚えていない主人公だが、さまざまな少女らと出会う中で彼女らがかつて自分と交流を持っていた人物だと気づいていく。なぜ主人公は彼女らのことを忘れていたのか? そこには悲しい別れと交わした約束の物語があった…

今作において約束とは、ヒロインと過ごしたかつての記憶を取り戻すためのトリガーとしてある。また過去の記憶自体、ノスタルジー的に浸りきるものではなく、現在主人公とヒロインが置かれている苦境を打破するためのヒントを与えてくれるものとして位置付けられている。乗り越えるべきもの、捨て去るべきものとしてでなく、現在の状況をより良く読み換えていくために、記憶が反復されるのだ(実際、重要な局面で回想シーンの挿入される率はとても多い)。

天体のメソッド

以上をふまえ『天体のメソッド』を観てみると、「約束」「七年ぶりの帰郷」「北国が舞台」など、『Kanon』を想起させるキーワードやモチーフが散りばめられていることに気づく。物語上重要となるキーワードは「約束」だろうが、これも『Kanon』と同様に、記憶の反復を行うためのトリガーとして扱われていくはずだ。

では『天体のメソッド』とは『Kanon』の単なる変奏なのか? もちろんそうではない。いくつか違いを挙げることはできるが、何より目を引くのは舞台となる町の上空に滞在する「円盤」の存在だろう。「円盤」および謎の少女ノエルは、そのファンタジックな存在感から『ONE』で見られた「もうひとつの世界」の存在を暗示しているようにも思えるが、久弥の手による今作では何かそれとは異なる意図がある、と私は考えたい。

物語的な意味はこれから作中で明かされるのを待つとして、私が考えたのはノベルゲームという媒体で表現された『Kanon』の物語をアニメという媒体に置き換えるにあたって、不可避に導入されたのがこの「円盤」という道具立てなのではないかということだ。「円盤」について、公式サイトには

出現当時は世界中を大混乱に陥れたが、
そこに留まるだけの円盤への恐怖心は消え、
次第に観光地となり、徐々に人々の興味も薄れて行った・・・

(「イントロダクション」より)

とある。つまりいかにもいわくありげな「円盤」ではあるのだが、物語が始まる前の時点=主人公である乃々香が帰郷する前の時点では、そこにいかなる意味合いも見出されていない代物なのである。主要キャラクターである五人――おそらく「円盤」を呼び寄せた張本人――にとってのみ意味があるのであり、「人々」…つまり物語に係わることのないモブキャラクターにとっては、それは気に留めるべくもない「風景」にすぎない。

重要なのは、この設定によって「主要キャラクター/モブキャラクター」の峻別が、「円盤に意味を見出す者/見出さない者」という形で、同一の画面上で可能になっていることである。『Kanon』はノベルゲームであり、基本は「立ち絵」と呼ばれるキャラクターと一対一で向き合うウィンドウに視界が制限されていたため、そこには風景の広がりがなかった*1。そうした制約が必然的にミニマムな人間関係の中での作劇を強い、「過去の記憶」や「もうひとつの世界」といった、「風景」に依存しない作劇の方法論が洗練されていったのである。しかしアニメでは「風景」を描かないわけにはいかない。ミニマムな人間関係の中での作劇を得意とする久弥氏がアニメでその作家性を十全に発揮するためには、「モブキャラにとっては風景にすぎないが、主要キャラクターにとっては重大な意味を持つ」円盤を風景の中に配置することが不可欠だったのではないだろうか。


結びにかえて

天体のメソッド』では(ノベルゲームでは表現することが難しい)群像劇の形がとられており、それによって「円盤」および「約束」に対する異なった立ち位置を、各キャラクターに割り当てることが可能になっている。みやげ物屋の看板娘として「円盤」を最も自然に受け入れているこはる、「円盤」そのものに敵意を持ち、それを追い出そうとする柚季とその兄の湊太、そして事の一部始終をどうやら知っているらしい汐音。ここにもちろん「約束」の張本人である、乃々香とノエルが加わる。彼らの「円盤」や「約束」に対する立ち位置がどのように変化していくかは、今後の見どころのひとつになるだろう。

エンディングの映像では「円盤」はやがて消え去ることが示唆されており、物語はそこに至るまでの空白を紡いでいく形になる(はずだ)。やがて訪れる「円盤」との、そしてノエルとの別れに備えつつ、その別れがキャラクターたちにとって明日を照らすものであるよう、視聴を通して見守り続けていきたいと思う。

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*1:「立ち絵」の例。背景に重ね合わせるようにして、キャラクターがこちらを向いて「立っている」ように表示されることから、このように呼ばれる。特に『Kanon』の発売された2000年当時はPCの容量も限られていたため、少ない背景CGを使いまわす必要があった。

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さようなら、メカクシ団――また、何処かで。

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カゲロウプロジェクトの複雑に見える構造を解きほぐしていくと、後に残るのは家族の情や、似たような境遇にある者に対する共感だけだ。小説やアニメなど、「筋(プロット)」を持つはずのメディアに展開されたはずなのに、やはり「何が起こって、こうなったのか」という肝心なところは説明されない。誰かが誰かのことを好きだった、思いやるというエモーションが、切れ切れにこぼれてくるのみである。

カゲプロのキャラクターは、本質的に語りを行っていない。大体の背景は説明されているし、確実に物語を持ってはいるのだが、自ら語るということ(起きた出来事に、独自の解釈を加えること)はしない。状況に直面した際の心情を、そのつど吐露するのみだ。故にカゲロウプロジェクトという対象に私たちが見る「物語」は、必然的に各人各様のものにしかなり得ない。それは自らの心の影とでもいうべきもので、カゲプロのキャラクターに抱く共感とは、自分自身の人生で「いつか、どこかで」抱いた感情と同じであるはずだ(ある音楽を聴いたときに、必ず思い出される記憶のようなもので、やはりカゲプロはどれだけ多くのメディアで展開されようと、そのコアは音楽にあるのだとも言いたくなる)。じん氏が本質的にミュージシャン――「音楽ですべてを語りたい」人物――だからこそ、すべてをキャラクターに語らせることが周到に避けられているともいえるかもしれない。

カゲロウプロジェクトに接することで私たちが得られるのは、名前と最低限の設定、ビジュアルが与えられただけの曖昧な輪郭に対して、共感を行うことのできるという確信である。二次元的なキャラクターが「物語」の拘束を離れて、むき出しのまま晒されているということ。それがカゲロウプロジェクトの世界に起きている事態だからだ*1

ここからは個人的な述懐になるが、自分はカゲプロに深くコミットするまで、「キャラクターに感情移入する」ということの内実が理解できていなかった。キャラクターの命運は「物語」の拘束を逃れがたく受けるものだと思っていたし、二次創作文化というものもその意味で理解できていたとは言い難かった。

しかしカゲプロは上述のようにキャラクターがむき出しの状態で晒されているのであり、そこにコミットしていくということは「キャラクターに感情移入する」作法を身につけていくということに等しかった(自分は「カゲロウデイズによるループ」の設定を足掛かりにその世界構造を解き明かすことから始めたわけだが、解き明かしていくほどに「母が娘を想う」「姉が妹・弟を想う」のような、シンプルなエモーションのみが残されるということに気づかされたのだ)。これによって得られたのは、他者に対するある種の寛容さであったように思う。二次創作の例ひとつとっても、「本編の展開を無視して、勝手に都合のよいエピソードを付け足すなど何事だ!」のように思っていたのが、「その人にとっては、そのようなエピソードを語らせるだけの何かが、原作のストーリーにあったのだろう」と、他者が原作に対して抱いたエモーションにまで遡って想像するゆとりが生まれたのである。

こうして身につけた「感情移入」の作法は、より一般に敷衍していくべきだと考えている。一連の思考を終えて、カゲロウプロジェクトとは「コンテンツ」であったという気がどうしてもしない。それは寛容さを涵養する一種の触媒、強いて言えば「キャラクターに感情移入する体験」そのものだったように思う。体験は次なるアクションに活かしてこそ意味をもつ。こうして得られた新たな視界とともに、このブログでも新たな題材を積極的に取り上げていこうと思う。

*1:まだ構想の段階ではあるが、「物語」とは「キャラクターと風景の間にあるはずの文脈」と言い換えられるかもしれないと考えている。カゲロウプロジェクトの世界には「風景」が抜け落ちている(せいぜいが「アジト」「学校」「都会」などといった曖昧な語彙で説明されるものにすぎない)。「物語の拘束を離れ、キャラクターがむき出しになっている」状態とは、「風景」が抜け落ちているが故に、そもそも「キャラクター」と「風景」の間に文脈を見出すことができない、という事態を指すのかもしれない。

カゲロウプロジェクトに見る、「タテの関係性」という主題

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 ライブイベント「MAKE a MEKAKUCITY」。キャラクターの「声」が生身の演者を遥かに凌駕する求心力を誇っていたことに加え、もうひとつカゲプロの凄味として感じたのが「タテの関係性」という主題の深化と、そこから導かれるファン層の射程の長さだ。カゲプロはティーンに刺さる焦燥感の表現だけでなく、母娘(アザミ‐シオン‐マリー)や姉弟(アヤノ‐キド・カノ・セト)といったタテの関係を作品に組み込んでいる。カゲプロに「泣く」ということは、親や年長者(あるいは年少者)への思いやりを涵養するということと不可分の体験なのだ。実際自分の横に座っていたのは小学生らしき女子二人組だったのだが、キャッキャしつつも(セトとヒビヤがそれぞれお気に入りらしい)、興奮しすぎてこちらに割り込み気味になった際には「すいませんね~」とか言いつつ自分からスペースを空けてくれた。私は決して子供が得意ではない、というかぶっちゃけ苦手としているのだが、いつもは生じる苛立ちが全く生じなかった。「カゲプロ厨」などと言われているのが嘘みたいに(実際嘘である部分は多いのだろう)、カゲプロファンは思いやりの精神に溢れている。

 初めに主題の「深化」と書いたのはライブで演奏するにあたっての歌い手のセレクトに、非常にコンセプチュアルなものを感じたからだ。具体的には「アヤノの幸福理論」「シニガミレコード」を歌った奥井亜紀、「マリーの架空世界」「days」を歌ったLiaについてである*1。奥井は「このステージって横幅が20mあるんだって~。クジラと同じくらい。クジラのお腹の中にいるって思ったらみんなで一つの命みたいだね~」「みんなのお母さんになったつもりで歌います」などと語りつつ「シニガミレコード」を歌い始めたし、コノハがカセットテープを再生する、という演出で場内に流された「マリーの架空世界」は、なんとLiaの実娘によるカラオケであった。観客を戸惑わせることもわかっていただろうに(実際サイリウムの揺れ動きには大いにそれが見受けられた…)このような演出を施したのは、そこに明確なコンセプトがあったからに違いない。

 そもそも「ティーンエイジャーの仲良しチーム」と見なされがちなメカクシ団についても、メンバーの年齢は10歳~19歳と幅広く*2、その社会的ステータスもばらばらである(学生と明言されているのはモモとヒビヤくらいのものだ)。同じくティーンエイジャーの共同体を描いた『Angel Beats!』のように「学校」を土台としたモデルではなく、年長者が年少者を、あるいは逆に年少者が年長者を慮るという「タテの関係性」こそが基調をなしているのだ。そしてストーリーの時間軸が過去に遡るにしたがって、メデューサ一族やアヤノ一家の挿話を通じて「母娘」や「姉弟」といった「家族」のすがたも見えてくるようになっている。

 ところで唐突に『Angel Beats!』というタイトルを出したが、この作品を手がけたシナリオライター麻枝准の一連の作品群と比較することで、カゲプロのコンセプトはよりいっそう明確になる。麻枝准は一貫して「家族」というテーマを描き続けてきた作家であり、『AIR』『CLANNAD』では母娘というタテの関係性を、続く『リトルバスターズ!』『Angel Beats!』では学校の仲良しグループによるヨコの関係性をそれぞれ描いてきた。現状の最新作である『Angel Beats!』が「死後の世界の学園」を舞台としていたこと、その主題歌である「My Soul,Your Beats!」を歌唱したのがLiaであり、しかもそのレコーディング中に(今回「マリーの架空世界」を歌った女児を)懐妊中であったというエピソードも加味すると、カゲプロを麻枝准が一貫して探究してきた主題の正統な後継者、文字通りの嫡子として位置付けることもできるだろう。

個人的には、カゲロウプロジェクトの「家族」という主題への屈託のなさは、ソーシャルネットワークの配備によって、父権的な「タテの圧力」が相対的に弱まったことの反映ともいえるのではないかと考えている(原作者であるじんやしづが、SNSを介して出会ったということを思い出してもいい)。タテの関係が決して消失したわけではなく、フラットな思いやりの機能する場所に変質し始めたということ。そのような時代背景をもカゲプロは映し出していると言っては、過大評価にすぎるだろうか。

*1:これらの楽曲は「アザミ」「アヤノ」といったキャラクターのテーマソングであり、まさしく母が娘を、姉が弟たちを慈しむ気持ちを主題にしている。

*2:厳密には100歳超えの「メデューサの末裔」マリーや、造られたばかりのアンドロイドであるコノハもいる。