qiree's weblog

再読に耐える内容を目指します

コミックマーケット(C87)3日目に参加します

ついにコミケに出展側で参加することになりました。サークル「アニメルカ」のブース(東ホールS24b)で売り子いたします。自分の関わった頒布物は以下のとおり。

 

■『反=アニメ批評 2014winter』

アニメルカ公式ブログ アニメルカ特別号『反=アニメ批評 2014winter』 目次

2014年、個人的「カゲプロイヤー」を締めくくる形で、評論を寄稿させていただくことができました(編集長の高瀬司さんには粘り強く改稿作業にお付き合いいただき、感謝の極みです)。タイトルは「記憶の再構成と共感のプロセス」。単なる「ループもの」として受け取るだけでは見えてこないカゲプロの「読み方」を、非ループ系のノベルゲーム作品である『Kanon』を手掛かりに論じたりしています。そうすることでカゲプロにおける「主人公」とはどのような存在なのか、またキャラクターに感情移入するとはどういうことか、なんて問いも浮かび上がってくる……という仕掛け。カゲプロ入門としての意味合いも込めましたので、楽しんでいただければ幸いです。

なお今回の冊子ですが、坂上秋成さん・村上裕一さんというすでに単著もある気鋭批評家二名による対談/論考が一番の読みどころなんじゃないかと思います。自分が寄稿していなかったとしても、これは絶対に購入していましたね。。坂上さんの「グラスリップ」評はアニメというメディアにノベルゲーム的な構造を落とし込むことのある種の限界点を指し示したものになっていそうですし(放送時のツイートにも大いに刺激を受けました)、村上さんの論考も一冊目の単著『ゴーストの条件』の方向性を推し進めた「キャラクターとは何か?」という本質的な問いに対する最新の知見が披瀝されたものになっているはずです。今回自分が文章を書いたのも、本当にこのお二人の発言・文章に触発されたところが大きく、こうして名前を並べていただいたこと自体非常に感無量なのです。

良い本になっていると思います。ぜひブースにお足をお運びください!

 

■『天体のメソッド』総評

昨夜の最終回を観て、早速同作品の総評を書かせていただきました。コピー誌として無料で頒布します。

約8000字、fhánaのメンバーのみなさんにも好評をいただいたブログ記事「久弥直樹のメソッド」をベースに、大幅な加筆をおこなっての総評となります。「円盤」とは、「ノエル」とはなんだったのか?と掘り下げて考えることで、単なる過去作品の焼き直しではない、明確に『Kanon』の乗り越えを図った作品として『天体のメソッド』があることを示しました。先日足を運んだサークル「レトリカ」さんのイベントで知見を得た、哲学者ミシェル・セールの議論とも響き合う内容となっております。

なお、こちらは完全に個人的に制作したものであり、高瀬さんによる編集等も入っておりません。したがって粗い部分は多々見受けられると思います。一切の文責は私にありますので、その点よろしくご承知いただければ幸いです。

 

ブースでいろいろな方とお話できるのを本当に楽しみにしています。当日は、どうぞよろしくお願いいたします!

麻枝准の新作「Charlotte」のタイトルについて

先日、『Angel Beats!』につづく麻枝准による完全新作アニメ『Charlotte』の制作が発表された。いまだ全貌の見えない同プロジェクトだが、この「シャーロット」というタイトルからいろいろと考えがふくらむので書き記しておきたい。

結論から言ってしまうと、これはロックバンド「ART-SCHOOL」の同名曲を参照していると見て間違いないだろう。「ART-SCHOOL」のボーカルは木下理樹、そう、『リトルバスターズ!』の主人公・直江理樹の参照元であり、『Angel Beats!』に登場したロック少女、岩沢が音楽に目覚めたきっかけになったバンドの名前も「サッドマシーン」(これも同バンドの曲名)と、麻枝准作品において際立って多くの固有名詞が引かれているのがこの「ART-SCHOOL」なのだ。

では、当の「シャーロット」とはいったいどのような曲なのだろうか。「サッドマシーン」はライブの定番曲のひとつだが、このように焦燥感あふれるオルタナティブ・ロックというのが同バンドの基本路線ではある。そんな中にあって「シャーロット」はライブで演奏されることは少ない、ミディアムテンポの憂いを帯びたナンバーだ。

この曲は木下理樹にとってとりわけパーソナルな、かつ大きな意味合いを持つ曲である。というのも、彼の亡くなった母親に捧げられている曲なのである。本人による日記がウェブ上に残されている。

俺の母親が死んでから、もう2年がたつ。
以前にも書いた事があるが、俺は18才から23才になるまで約5年間無職だった。
その間母親の仕送りで食っていた。
やっとプロミュージシャンになれる。というその時期の直前に母親が死んでしまった。
ART-SCHOOLの【シャーロット.e.p.】というアルバムを俺は母親へのレクイエムのつもりで作った。
それ以外に俺が出来ることは無かったからだ。

俺は葬式でも泣いていないはずだ。
生き残った者が出来る事は、毅然と、凛々しく見送ってあげる事しか無いからだ。
ただ、知らせを受けて警察に死体確認の為、行った時に、母親の顔を見て、俺はこらえきれずに一度だけ大声で泣いた。

今は運命だったんだなと思っている。
人はいつか死に、そして灰になる。
俺は自分の生涯を音楽に捧げると決めた。

木下理樹

DIARY OF MADMAN ~狂人日記~ 2003年12月21日 より)

これ以上を語る必要はないだろう。
問題にしたいのは、どのような曲であるかもおそらく知った上で、麻枝准がこのタイトルを新作のタイトルに借りてきたことの意味である。

これは完全に私見なのだが、先日公開されたPVにおどる言葉「一人の少年と一人の少女が出会うとき、その過酷な運命は動き出す」が、『AIR』のラストシーンで流れる言葉「彼らには過酷な日々を、そして僕らには始まりを」とシンクロしている気がしてならない。つまり『AIR』から手向けられた言葉が15年の月日を経ていま、新たに物語として結実しようとしているのを感じるのである。

これに「シャーロット」が「死んだ母親に捧げる歌」であることを加味すると何が見えてくるだろうか。『AIR』を「母親」とした「子」としての物語、つまり水平線の向こうに消えていったあの子供たちの物語なのではないかと、考えがふくらんでこないだろうか。自身の作家性を決定づけた『AIR』を葬送し、新たなステージへと向かう決意。そんなものが見え隠れするのである。

(これは『天体のメソッド』で明らかに『Kanon』を意識させるモチーフを盛り込みつつもその乗り越えを図った久弥直樹の動きともシンクロしていて、興味深い)

まずは続報が待たれますね。

『天体のメソッド』11話メモ

いずれまとまった文章は書くつもりですが、ひとつの「物語」が終わったということでまずはメモ。まさか残り2話を残してノエルが「消える」とは……。

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ノエルとはなんだったのか。

その答えは他ならぬ彼女自身がこう発している。

「ノエルは円盤だから」

円盤とは「風景」に差し挟まれた異物である。

誰もがそれを目に留めながら、しかしアニメの始まった時点では単なる観光名所として受け入れられているもの。

そこに積極的な意味を読みとるのは、呼び寄せた張本人であるところの五人の子供たちのみである。

だから円盤はまず第一に、五人の主要登場人物と、その他のモブキャラクターを切り分ける装置として機能している。

円盤が見えなくなると、ノエルの具合は悪くなる、という設定にも表れている通り、それは「霧弥湖町」を周囲の空間から切り離すものでもある。

「円盤を呼ぶ」という行為によって『天体のメソッド』というお話は始まっているのだから、円盤とはこの作品を視覚表現として成立させるための「マッチポンプ」なのだ、といえるのかもしれない。


彼らはあくまで「円盤」を呼んだ。

ノエル、などというものは呼んでいないのである。

なぜ円盤はノエルを必要としたのだろうか?

逆に、ノエルによって可能となっていることとはなんだろうか?

それは言葉の媒介である。

ノエルは七年の時を経て心理的にも、物理的にも離れてしまった五人の間をせわしく動きまわる。

彼女は不思議な力をつかうこともない。

ただ誰かの思いを(あるいはそれが込められた何かしらの物を)他の誰かのもとに運ぶ、それだけである。

お互いに口にすることはなかった、五人の「願い」は11話で明らかになるが、細かな違いはあるものの大筋においては共通していて、「みんなでずっと仲良くいられますように」くらいのものだった。

だからその「願い」は、ある意味ではノエルという存在がいなくても、すでに成就していたともいえる。単に時間や物理的な距離が、それを妨げていただけなのだから。

しかし、五人は口をそろえる。

「ノエルが私たちの願いをかなえてくれた」

途切れてしまった過去と現在。物理的にも、心理的にも離れてしまった七年間。

ノエルの媒介する言葉によって、彼らは途切れた連続性を取り戻す。

言葉によって記憶に新たな切り口を加える。現在においてその意味を読み換える。

それはまさしく「物語り」だろう。

「物語り」をおこなったのは彼ら自身だけれど、ノエルがいなければ途切れた過去と現在をつなぐ「物語り」は紡ぎきれなかった(と、彼らは感じる)。

言葉にしなければわからないこともある、という当たり前のことに、ノエルは気づかせてくれたのだ。

これこそが「ノエルが私たちの願いをかなえてくれた」ということの正体である。


ノエルとは、途切れた過去と現在とをつなぐ言葉、『天体のメソッド』という物語そのものであったといえる。

(思い出してほしい、11話をかけてこの作品がなしてきたことといえば、ただ辛抱づよく言葉を交わし続けることだけだった)

ノエルが消えるとき、言葉で埋めるべき空白は、もうどこにも残っていない。

円盤が消え去ったあとに広がるのは、現実の場所にモチーフを借りた、画面の外にいる私たちにすらなじみのある「風景」だけだ。

五人を特別な「登場人物」たらしめるものは、もはや何もない。

 

……あと2話を残して、いったい何を語るというのだろう?